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2007/12/16

時空(31)

25

 

未来の自分自身のために遺す 名もないものたち

 

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その日、いつもは素通りするコインパーキングを通りかかった時、

ふと何かに導かれるようにそこに足を踏み入れた。

特に変わった様子もない、この辺りではありきたりな駐車場。

建物が壊される度に、次の建設までの間の有効活用として作られ、

短い時には、1か月くらいでなくってしまうこともある類の。

 

その駐車場の突き当たりに竹やぶが見えて、

見るともなくその奥までフラフラ歩いていった。

そして柵の向こうを見た瞬間、目に飛び込んできたのは池。

 

池?

 

とっさのことで、頭の中が混乱した。

そこに行く前に近くの有栖川公園で池を撮ったばかりだったので、

その池と繋がっているのかと錯覚したほどの大混乱。

地理的に、そんな筈などある訳はないのに。

でも、それならなぜここにこんな池が。

しかもマンションの敷地内。

漸く頭の中で筋道だった思考がまとまりはじめる。

これは…がま池だ。

 

蝦蟇池。

それは30年以上前、私が小学校の低学年の頃にマンションの一部となり、

大部分が埋め立てられてしまった幻の池。

見た事がないのか、それとも見たのに幼すぎて記憶に残っていないのか、

私の中では長い間、畏怖さえ伴う憧れの対象になっていた場所。

いつもその閉ざされたマンションの前を通る度に、

悔しさと歯がゆさで胸が締め付けられる想いを味わっていた。

 

江戸時代に大火事があったとき、この池のガマ蛙が火事を消し止めたという伝説がある。

それは麻布七不思議にも数えられ、かつては500坪もの広大な池だった。

その池が思いがけず、目の前に現れた。

それもそこに何かが建つまでの短い期間限定だ。

ここに何かができてしまったら、生きている間には、おそらく二度と、

この池をまともに見ることはできないだろう。

もしくは、池自体が完全に埋め立てられてしまうのが先かもしれない。

(事実、何年か前にもその危機があり、池の面積はさらに小さくなったのではなかったか)

 

昔、この池から5~6分ほど離れた場所に住んでいた。

雨が降ると必ずこの池からガマ蛙がたくさん出てきて、

私の住んでいた家の方まできてはすぐに車に轢かれてしまうので、

道にさまよい出た蛙を見つける度に、子供の感覚では猫ほどもある

大ガマを抱き上げて、道の脇の草むらなどまで運んでいたものだ。

 

そのときの蛙たちが、そしてその池そのものが、

長い間見たい見たいと想っていた私の気持ちに応えるように、

『今なら見えるよ』

『見ていいよ』

と、あとから考えれば考えるほど、呼んでくれたような気がしてならない。

 

カメラを構えられる位置が限られていることと日差しの関係上、

非情にわかりづらい写真になってしまったけれど、

池の水面に映っているのはこの池を所有するマンション。

表側からは、一切この池の姿は見られないようになっている。

 

28

 

それ以外にも、過去にタイムスリップしたような光景を目にした日。

まさに時空をすり抜けたような一日だった。

アルバムの中のペパーミントブルーの店があるビル、

駐車場に横の古いアパート、エノコロ草が生えた駐車場も、今はもうない。

 

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アルバムはメインサイト路地裏の花たちにて。

 

 

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